~ アカデミー賞受賞作Ⓡ『Coda コーダ あいのうた』で痛感した伝えることの尊さ ~
No.018|C.コトバ|C-004
今、コミュニケーションは足りているか
日常生活から国際社会まで暗いニュースばかりの世の中。そんなニュースに触れるたび、それってコミュニケーション不足のせいなんじゃね? と、いつもモヤモヤさせられます。今のご時世だからこそ、コミュニケーションの視点に立って、あらためてコピーライティングについて見つめ直してみます。
目次|INDEX
【4】コミュニケーションの尊さ
【1】コピーライティングとコミュニケーション
一方向のコピーライティング
そもそも、コピーライティングは、何のために使うのでしょう。とはいえ、日常で意識してコピーライティングを使うことって少ないでしょうから、あくまで商業的なシーンではありますが、
情報伝達のため
販促販売のため
宣伝広告のため
認知啓蒙のため
勧誘誘因のため
というような目的が挙げられ、ざっくり総じて「モノゴトを伝えるため」といえそうです。そのときのコピーライティングの方向は「書き手・送り手・作り手=発信者 ⇒ 読み手・受け手・使い手=受信者」という具合なので、性質としては「一方向」であるといえます。
コピーライティングの性質とは
・目的:モノゴトを伝えるため
・方向:書き手・送り手・作り手=発信者 ⇒ 読み手・受け手・使い手=受信者
・性質:一方向
双方向のコミュニケーション
対して、コミュニケーションは、何のために使うのでしょうか。こちらは日常でも意識、いやむしろ無意識なほどに頻繁に交わされるものと思われますが、
情報共有のため
会話対話のため
意思疎通のため
意見交換のため
親交親睦のため
というような目的が挙げられ、ざっくり総じて「モノゴトを伝え合うため」といえそうです。そのときのコミュニケーションの方向は「書き手・送り手・作り手=発信者 ⇔ 読み手・受け手・使い手=受信者」という具合なので、性質としては「双方向」であるといえます。
コミュニケーションの性質とは
・目的:モノゴトを伝え合うため
・方向:書き手・送り手・作り手=発信者 ⇔ 読み手・受け手・使い手=受信者
・性質:双方向
上位概念としてのコミュニケーション
一方向のコピーライティング。双方向のコミュニケーション。あわせて語られることも多い両者ですが、こうやってとらえると、実はその性質に大きな違いがあることに気づけます。
ただ、ある意味コミュニケーションを成り立たせるためにコピーライティングは存在するものであって、一方向/双方向という構図で両者を対立させるのはあまりよろしくはないのですが、考察を深めるためにも、ここは誤解を恐れずに、あらためて両者について、
コピーライティング:一方向
コミュニケーション:双方向
と、定義した上で、コピーライティングの上位概念としてとらえたコミュニケーションについて考察してみます。なんだかヤヤコシイ説明になってしまい、コミュニケーションが足りていないようでアレですが、そんなワケで以降の本稿の大半は、コミュニケーションについて考えていきます。
【2】コミュニケーションを考える
コミュニケーションの定義
まずは、コミュニケーションについて、字引的に定義してみます。
コミュニケーションとは
人が意思、感情、思考、気持ち、情報を会話、言葉、文字、身振り、手振りなどでお互いに伝え合うこと。意思疎通、相互理解、心、思い、気持ちの通い合い。
一方、コピーライティングについての字引的な定義ですが、意外なことに一般的な字引には載っていないことも多いので、以前に触れた小欄からその定義を再掲します。
コピーライティングとは
広告の文章、文案、キャッチコピー(惹句)を書くこと。おもに企業、団体、事業、店舗、人物、商品、サービス、イベント、ものごとにおける宣伝、販促、誘因、喚起、認知などを目的とした、コピーや文章一連(タイトル、リード、本文など)のテキスト一式、一文、一句、一言を書き起こすこと。一連の言語化。あるいはそれらにともなう情報や内容の整理、構成、組み立てまでをも含む。類:ワーディング
コピーライティングの基本事項10個より
あらためて両者を比べると、一方向的な後者のコピーライティングに対して、前者のコミュニケーションは双方向的といった定義でも大きく外れることはなさそうなので、このまま考察を続けます。
コミュニケーションのマナー
コミュニケーションのマナーといっても、日常シーンで考えるとあまりに広範なので、あくまで商業コミュニケーションのシーンという前提ですが、アクセシビリティとユーザビリティは、コミュニケーションのマナーとしてよく挙がり、同時に似た意味合いから混同しやすい用語としても知られています。
アクセシビリティとは
(アクセス=接近の意から)近づきやすさ、利用のしやすさ、モノの得やすさを意味し、おもにITやウェブの分野では、ソフト、システム、情報、機器、操作が、身体の状態・能力の違いによらず同じように使えること。使用感、利用感、操作感の状態や度合い。
ユーザビリティとは
(ユース=使うの意から)おもにITやウェブの分野では、ソフト、システム、情報、機器、操作における、使いやすさ、使い勝手のこと。
両者とも「使いやすいこと」を指しますが、前者のアクセシビリティは「身体の状態・能力の違いによらず同じように使える」という点で、後者のユーザビリティと決定的に異なります。テレビなら字幕機能、ウェブなら音声読み上げ機能などがアクセシビリティに優れている、というイメージになります。
そういう意味で考えると、
というマナーというか配慮がなされた上で、情報の発信者と受信者の双方で理解しあえる状態が、理想的なコミュニケーションといえます。少なくとも情報を送る発信者は、アクセシビリティとユーザビリティの両面を、できるかぎり配慮するのがマナーでしょう。
平たくいえば「わかりやすくて誤解や不快のないやりとり」こそが、理想的なコミュニケーションである、ということをいいたいワケですが、どうもコミュニケーション力に欠けているようで、恐縮です。
【3】ディスコミュニケーションへの憂慮
ディスコミュニケーションという問題
双方向なコミュニケーションという視点に対して、一方的、遮断的、不通的、利己的、排他的であったりと、コミュニケーション不全に陥っている状態が存在します。冒頭で触れた暗いニュースに対するモヤモヤにも通じますが、つまりはいわゆるディスコミュニケーションという状態です。
ディスコミュニケーションとは
意思疎通、意思伝達、相互理解ができない、成立しないこと。コミュニケーションを交わす上で不足、誤解、断絶が生じてしまう状態
日常生活レベルから国際社会レベルにいたるまで、暗いニュースの数々は、まさにこのディスコミュニケーションが原因なんじゃね? というのが、冒頭で触れたモヤモヤの正体だったのです。
元凶はディスコミュニケーションなのか
コミュニケーション不全を意味するディスコミュニケーションですが、そんな状態に陥ってしまうと、家族なら不仲や別離、仕事なら減給や解雇、案件なら苦情や解約、個人間なら損失や訴訟にだってなりかねないし、国家間なら紛争や戦争だって起こりうる。どうっすかね、ちょっと大袈裟でしょうか。
さまざまなコミュニケーションツールが発展した現代社会が抱える課題。それは、コミュニケーションの不足、誤解、断絶の蔓延であって、そんな状態をあらためて認識し解消していくことが今、世の中で強く求められているのではなかろうか。近頃の暗いニュースに触れるたび、そう感じざるを得ません。
【4】コミュニケーションの尊さ
『Coda』を観ずにはいられない理由
今回コミュニケーションを考えさせられるきっかけをくれたのが、『Coda コーダ あいのうた』(以下『Coda』)の良質なストーリーでした。笑えて、泣けて、感動して、号泣すると世界中が大絶賛し、既報のとおり、2022年第94回アカデミー賞Ⓡで作品賞、助演男優賞、脚色賞を獲得した話題の作品です。
エンタメ界にどっぷりだった旧職時代に比べ、すっかり映画館から遠のいていながら、同作を観ずにはいられなかった理由がありました。CODAとは「Children of Deaf Adults=耳の不自由な親を持つ子ども」という意味ですが、実は当方もCODAだったからなのです(子どもという齢でもないですけど)。
私事で恐縮ですが、母は後天性の難聴者で、同じく耳が遠かった父の他界後に母との同居を選んでからは、彼女の社会生活での「通訳」を当方が担っています。ただ、高齢で難聴を患ったために、今さら手話習得も難しく、会話はもっぱら携帯ホワイトボードか、超簡易な創作ジェスチャーに限られます。
耳の不自由な親を持つ子=CODAとして
ホワイトボードやジェスチャーでは限界があり、とくに運転時はいずれもほぼ使えません。探し方が下手なんでしょうが、音声系アプリやツールなど散々試しながらコレといったモノがなく、結局母との会話はホワイトボードかジェスチャーしかないため、会話は難しくなり、頻度も激減してしまいました。
そんな当方から観た本作は、ネタバレ部分には触れませんが、CODAとして痛いほど共感できるエピソードばかりで、落涙を通り越し、まあぶっちゃけ嗚咽するほど。そこで痛感したのが意思疎通や相互理解といったありきたりな表現を超越した、心や魂が通じ合えるコミュニケーションの尊さだったのです。
コミュニケーションとはなんぞや
ところで、コミュニケーションと似たようなイメージで「言語」という言葉がありますが、あらためてそもそも言語って何なんでしょう。英文では「Language」なので、「日本語」「英語」などにおける「語」に相当するのが一般的な解釈だと思われますが、字引的には、
言語とは
文字や音声などによって、感情・意志・思想といった情報を伝えるため、受け入れるため、理解するための約束ごと、規則ごと、あるいはその体系。
とされるので、言語とはコミュニケーションの方法といえるかもしれません。そう考えると、コミュニケーションの言語には、どんな方法があるのでしょう。
①視覚なら:文字、絵、画像、映像、身振り、手振り、手話
②聴覚なら:発話、音声
③嗅覚なら:香り、匂い
④味覚なら:味、温度
⑤触覚なら:触れ合い、触話
⑥心魂なら:①~⑤のすべてとこれらを超越した心魂や精気そのもの
六つの知覚に対して、それぞれの言語、つまりコミュニケーションの方法が挙げられます。難聴者なら①のような方法で、盲者なら②のような方法で、コミュニケーションが交わされますが、『Coda』という作品では、これらの方法のほとんどを尽くし、自然と表現されていたように見受けられました。
あらためてコピーライティングと向き合う
さて。本稿終盤にあたり、コミュニケーションからコピーライティングへと話を戻します。ここにいたるまでコミュニケーションについていろいろ考察しておきながら、つまりはですね、『Coda』という作品を通じ、コピーライターとして何を感じたのか、ということです。大喜利よろしく整えてみます。
コピーライティングの発信者は、それを読む受信者との直接的なやりとり=コミュニケーションがない限り、そのコピーライティングはどうしても一方向的な立ち位置となる。だからこそ双方向的なコミュニケーションの立ち位置を決して忘れずに、コピーライティングに真摯に向き合わなければならない。
どうでしょうか。『Coda』から感じたことを(PC画面でなら)3行ほどでまとめてみましたが、意思疎通や相互理解という意味でのコミュニケーションとして、伝わっていますでしょうか。
言語として恵まれるコピーライティング
文字。絵。画像。映像。身振り。手振り。手話。発話。音声。香り。匂い。味。温度。触れ合い。触話。人と人との意思疎通や相互理解を成立させる=コミュニケーションには、先に挙げたこれらの方法が選択できます。コピーライティングであれば、文字(テキスト)がその言語方法にあたります。
一人のCODAとして実感するのは、コピーライティングというコミュニケーション方法は、とても恵まれた豊かな言語方法だということです。わずかな文字数であっても心や魂に十分に訴えられるからです。
そして、文字(テキスト)を用いたコピーライティングという言語が、一方向のコピーライティングの枠を超え、今以上に心魂や精気そのものとわかりあえる双方向のコミュニケーションへ昇華することで、世に蔓延する不足、誤解、断絶=ディスコミュニケーションをなくしてくれることを願います。
『Coda』で痛感させられたコミュニケーションの尊さ。それは言語の域を超えてわかりあえるやりとりの奇跡であり、クサイのを承知で申しますが、もしかしたらそれを人は、愛と呼ぶのかもしれません。
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(了)